2009年11月11日
民主党
幹事長 小沢一郎 殿
日本キリスト教連合会
委員長 山北宣久
抗 議 文
貴職は11月10日「全日本仏教会」松長会長との会談後「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと思っている。排他的なキリスト教を背景にした文明は欧米社会の行き詰っている姿そのものだ」と記者団に語ったと報道されています。
この貴職の発言は、キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ「排他的」で「独善的」な発言であり、日本の責任政党幹事長が世界人口の約3分の1のキリスト者がいる国際社会に向けて発言した言葉として、その見識を深く疑わざるを得ません。
「汝の隣人を愛せよ」と説き、生命を捧げてすべての人とのために仕え切ったイエス・キリストを救い主と信じるキリスト教は民族・国境・思想等のあらゆる差異をこえて平和の実現のため努力しています。
本連合会も教派教団を越えて一つなる歩みを重ね、日本宗教連盟傘下にあって「全日本仏教会」とも協力して広く差別偏見からくる排他性と戦っています。
そうした働きを否定し、キリスト教を排他的と決め付ける言葉に抗議し、撤回を強く要求します。
日本キリスト教連合会
(〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
TEL 03-3207-8768 / FAX 03-3207-3918)
*以下の文章は、「尊厳死法制化を考える議員連盟」の会合で、関正勝先生が述べられた全文です。関先生のお許しを得て、ここに掲載いたします。
「意見陳述」掲載について
本年3月、「尊厳死法制化を考える議員連盟」(代表・中山太郎代議士)の幹事・渡辺秀央代議士から、同連盟が尊厳死に関する法制化を検討するために宗教界を含めた各界の意見聴取を行っており、キリスト教の立場からの意見を聴取したい、との依頼が日本キリスト教連合会事務局にありました。これを受けて、連合会として依頼に応えるべきか、応えるとするならばどなたにお願いするか等を常任委員会で協議いたしました。協議の結果、尊厳死の問題はキリスト教界でも意見の統一ができておらず、まして、このような問題に連合会が代表して意見を述べる立場にないことを確認しました。
法案のたたき台を見ると、医師の「違法性阻却」(法的な免責)に主眼があるように思われます。尊厳死そのものの定義もあいまいで、全体に議論を急ぎすぎていると感じました。また、キリスト教界の意見を聞いたという既成事実のみが利用されるという懸念もあります。
結論として、日本キリスト教連合会は、この意見陳述がキリスト教界の統一見解ではないことを確認した上で、意見を述べる場には積極的に出かけていく姿勢が必要であるとして、この依頼に応えることにいたしました。意見陳述は聖公会神学院長の関正勝先生にお願いし、会合の場には委員長の松岡が同行いたしました。
日本キリスト教連合会常任委員会は、これを機に加盟教会・教団とともにこの尊厳死の問題を今後も学び、協議していきたいと考えております。 常任委員長 松岡俊一郎
尊厳死法制化を巡って
尊厳死法制化を考える議員連盟総会での発題
聖公会神学院
校長 関 正勝
2006年4月4日
1. 法制化の背後にある意図への問い
「要綱骨子案」第五 「医師の行為の免責」とあるように、「無理な延命治療」による患者の苦痛のいたずらな引き延ばしにすぎない「医療行為」の停止、と言うことに重点があるよりも、この第五項に中心がありはしないか。すなわち、争われることの多い「治療行為の中止」を巡って、医師のいわゆる「違法性阻却」こそが核心にありはしないか。
終末期医療に関わる医療現場と医師に求められる「治療行為の中止」の判断の困難さは、当該医師を絶えず倫理境界線上に立たせていると言わなければならない。そのようなクリティカルな状況の中での決断に、「違法性阻却」の成立を求める声が、医療現場と医師から緊迫感をもって発せられてくるのは必然かもしれない。
しかし、私は医師の「違法性阻却」を骨子とする、この「尊厳死法」は、いま医療現場に求められている医師=患者間の信頼関係をさらに破壊こそすれ、再生するものには決してなり得ないと考える。医療倫理において提唱されている「自律尊重」、「無危害」、「仁恵」、「正義」と言った諸原理にしても、それらは医療現場における医師=患者の信頼関係が、たとえば、地縁的共同体が近代社会の中で崩壊した結果、失われてしまった現実を担保するために主張されてきたといえよう。法律や原理・原則と言ったものは、人権や生命を守るためにあるわけであるが、そうであるなら人権や生命の前に自らを相対化する必要があろう。法や原理・原則は、人権や生命を守るための必要条件ではあっても十分条件ではもちろんないのであるから。
「尊厳死法」の名のもとで、医師が法によって自らの行為を正当化しようとすることは、医師が自ら法を隠れ蓑にすることと写り、医師と言えども「倫理的主体」(単なる技術者ではなく)であることを放棄して、自らの決断と行為に責任的であることを止めている者として立ち現れると言っても過言ではないであろう。ここには「悪」や「犯罪」と言ったものを防ぐための「必要悪」かもしれぬ法を絶対化し、それに自らの主体的決断を預けてしまうことが現実になりかねない。脳死判定の現場の医師が、当該の患者の死の判定(宣告)において、誰よりも早く家族や周りの者に死を伝えなければならない立場に立たされて、そのことのゆえに信頼関係が大いに破壊されることがあるように、末期医療の場面でも、医師の「違法性阻却」が、「最後まで医師としての最善を当該の患者に対して為す」者への信頼を大きく破壊するであろうと危惧している。
もちろん、「最後まで医師としての最善を当該の患者に対して為す」と言う理想が、パターナリズムによる「いたずらな延命」に結びつく危険は十分にあるであろう。それゆえに、書面による延命措置を拒否する、本人の「リビング・ウイル」は必要不可欠である。この「意思」を踏まえて、関わってきた医師は、自らの医師としての経験や知見に基づき、複数の医師と協議の上、しかも自らが倫理的主体であることの自覚のもとで自らの責任において延命措置の中止・停止を決断しなければならない。一人の人間の生き死にに関わる判断と決断なのであるから、担当の医師も自らの生と死を賭けるほどの覚悟が求められるであろう。「違法性阻却」が問題なのではなく、それまで関わってきたひとりの病む存在の末期という現実に、医師として、人間としてどう対応し、応答するかは医師としての成熟度が問われる事柄に他ならないであろう。生かすことにのみ精力が集中してきたこれまでの医療に対して、「いたずらな延命措置の拒否」が大切にされて、そのことが少なくとも「尊厳死」を可能とする一つの手立てとされるのであれば、先ず医師は「死」に於いてさえ医師として学ぶべき事柄があり、人間として成長の機会がそこにはあることに、より自覚的になることが求められるであろう。医師は自分の判断や決断が「違法」であったか、それとも「尊厳死」という名のもとにそれが「阻却」されるか、と他律的に行動すべきではないのではないか。
2. 何が「尊厳死」を可能にするのかに関する議論が必要
本「要綱骨子案」によれば「尊厳ある死」は、自己決定権を根拠として「延命措置を望まない」患者本人の「意思が尊重され」、「延命措置の停止等」によって可能となる、と考えられている(第一 「目的」、及び第二 「定義」2)。
果たしてそうであろうか。そもそもこの骨子案には、「尊厳ある死」についての理解がどこにも示されていない。従って、「尊厳ある死」は、「末期の状態」にある者の死をいたずらに引き延ばす可能性のある「延命措置」を停止・中止することによって、それが可能となるかのように理解されかねない。しかも、その停止・中止が患者本人の自己決定を根拠にし、決定を下した医師には「違法性阻却」が担保されているのであれば、ここに言う「尊厳ある死」とは、人間の死ぬ権利こそがそれであるかのようにも思えてしまう。「自死」は「尊厳ある死」とされるのだろうか。
末期の患者を定点にして、人間に「死ぬ権利」を保証することは、ぎりぎりのいのちを生きている者(「弱く、小さくされた者」)の生命を奪い・「殺す権利と義務」を、社会に、そして医師に与えることになりはしないか。「違法性阻却」は、医師にとっては自己の行為を正当化し、患者にとっては「死ぬ義務」へと反転する(「意味のある生」と「意味のなくなった生」とを選別する優性思想が潜在する)。本骨子案が「第七 持続的植物状態である者の取り扱い」の項で、「末期の状態にある者」と同じに扱うと述べているところにも、人間の「死ぬ権利」を盾に――この権利こそが本骨子案の「尊厳ある死」を担保するのであるが――「死ぬ義務」へ、そして「殺す権利」へと坂道を滑り落ちていく論理構造が見え隠れしていると考えるのは、私ひとりの杞憂であろうか。その根拠は、今日の私たちの生と死には、この時代の価値観といったものが大きく与っていると言えるからである。すなわち、どのような死が現実となっているかは、この時代・この国にあって、どのような生が大切にされているかを映し出す鏡に他ならないからである。末期やぎりぎりの弱いいのちを生きている者に、「死ぬ義務」を「安楽死」や「尊厳ある死」等という、婉曲語(ユーへミニズム)を用いることで正当化する背景に、生産性や社会性、合理性や効率性を価値とする社会が透けて見えるからである(事実、末期の医療に対する経済負担や医療保険等の問題が論じられることが多い)。
「延命措置の停止」が、いたずらな死期の延長を停止・中止して、「尊厳ある死」をもたらすかのような本骨子案の主張は、短絡的にすぎるのではないか。「安楽死」に関する、いわゆる「消極的安楽死」・「積極的安楽死」の区別による明確化がなされていないことにもよるであろうが、「末期の状態」や「死期が切迫」(この判断についても「合理的な医学上の判断」とあるのみで不明確)している者への「延命措置」の停止が、どうして、なぜ、「尊厳ある死」を可能とするのか不明のままである。ここには、苦しまず、痛まずに死に行くことこそ「尊厳ある死」であるという理解がみえる。このことによって、末期医療への取り組みが大いに遅滞することがないだろうか。日本における激痛緩和に関わる取り組みの遅れは、私たちが日常的に聞かされていることである。末期医療がいつも「過剰」か「過少」である現実を思うとき、「尊厳ある死」を「延命措置の停止」と短絡的に結びつける思考が、この「過剰」と「過少」の間隙を埋める努力のうちにこそあるであろう「尊厳ある死」への問いを、技術的な時間の短縮のうちに見出す結果になってはいないだろうか。
3. それでは「尊厳ある死」を可能とするものは何であろうか
私は、パターナリズムに自覚的で、しかも「当該の患者に最後まで最善を為す」医師と、それを信ずる患者の信頼関係こそがそれを招来すると考える。その信頼関係を医療現場で成立させるものが、トゥルース・テリング(真実の告知)に基づくインフォームド・コンセント(情報を与えられた上での同意ないしは選択)と、自己決定できるような支援であろう。「自己決定」に関して一言すれば、私はその「自己」とは「関係における自己」であること、しかもその関係は大きな国家、社会、医師といった存在との関係ではなくて、小さな関係の中での決断や決定であることが重要であると考える。
その上で、死に行く者が「生きてきたように」死を迎えること、その人の、それまでの人生を支えてきた大切な価値や存在への信頼や信実を喪失することなく、死を迎え得ることこそ「尊厳ある死」なのではないだろうか。このことのためにこそ、いたずらな「延命措置」停止・中止が必要となるのであろう。限られた、残された時間を、死に行く者は意識のなかで、あるいは無意識のなかで、そして存在そのものとして自分が大切にして生きてきた者との信頼関係のなかで、「死ぬまで生きる」のである。臨終の床を取り巻く者はそれを支援し、そこから学ぶのである。「尊厳ある死」は、個別性の上に成り立つ。
「尊厳ある死」を成立させるのは、「死に行く者」に学ぼうとする医療とともに、科学技術では捉えきれない「もう一つの世界」を大切にする思考であろう。それは、すなわちリビング・ウイルの問題でもあろう。「尊厳ある死」は、「延命措置の停止」によっても、またその決定を下す医師の「違法性」が阻却をされる「尊厳死法」によって可能なのではない。法制化は、むしろ尊厳死を可能とすると思われる医療現場における医師=患者関係の信頼関係を疎外することになるのではないだろうか。
人間の死に他者が口を出すことの危険は、よく私たちの知るところであろう(かつて戦死者は「英霊」と称された)。誰もその人の死を「良い死」であったとか、「無意味な死」であったとか言う資格はない。「尊厳死」の場合にしても同様である。人間にとって死は避け得ない現実である。であればこそ、自分は何に価値をおき、何を大切にし、何によって生かされて生きているのかという問いを、死の前の生で問い続け、その存在への信頼と関係を失うことなく死ねることこそ「尊厳ある死」ではないか。関係する者は、そのような環境を整え、支援するケアに徹することが望まれよう。